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1916に、負傷後ハーレックで休暇中、フランスでの僕の最初の数ヶ月の清算を始めた。愚かにも小説のようにそれを書きはしたが、僕は今それを歴史書に書き換えなければならない。ここに構成し直した章がある。
フランス到着時、我々6名の王室ウェルシュ・フュージリア士官はル・アーヴァ近くのハフリュア・ベイス・カムプ(キャンプ)に向かった。そこが塹壕の日課、爆弾の使用、塹壕の迫撃砲、ライフル銃‐手投げ弾、毒ガス・ヘルメトゥ、類似の専門的事項向け教育センタになった。何れにせよ今僕達はフランスの田舎を通る一つ二つの道筋を行軍し、それがすべてだった、ル・アーヴァドックで船から貯蔵庫の積み荷を降ろす陸軍兵役軍団を手伝うという疲労から離れて。その町は陽気だった。僕達が着くと直ぐ多数の年下の奴らが僕に近寄って話しかけた、彼らの言い張る姉妹らの売春を斡旋しようと。「僕は僕の妹の所に貴方を連れて行きます。彼女はとても素敵だ。210とてもいいジグ‐また‐ジグ。そんなにお金は要らない。とても安い。とてもいい。私は今直ぐ貴方を案内します。私の過剰な作戦?」王室ウエルシュ・フュージリアにではなくウェルシュ連隊に我々自体が配属されたことに気付いてうんざりはしたが「国境線伝いに」行くよう命じられた時僕は嬉しかった。
僕はウェルシュ連隊についてほとんど聞いていなかった、それは屈強で荒っぽいということ、それに第2大隊、それに向かって僕達は進んで来た、は年老いた第69の足取りのような並外れた連隊の歴史を持っているということを除いて。それは元来恩給受給者や少年新兵出身の緊急事態用の兵力として組織され、正規の大隊の業務を行うために海外に派遣されたー僕はその中の18‐世紀軍事行動を忘れている。一時(いっとき)第69は海兵隊員として勤めた。「浮き沈み」という愛称で呼ばれた、一部「69」はどんな方法で書き上げられるにしても同じ意味を成すから。「69」は僕達が加わった時確かに滅茶苦茶だった。211全中隊士官、最近サンドゥハーストゥから配属された二人の少年、それに一人の臨時予備大佐を除いて、は他の連隊から来た。そこには6名の王室ウェルシュ・フュージリア、2名の南ウェイルズ国境地方の住人、2名のイーストゥ・サリー、2名のウィルシャ、国境連隊から1名、地区長でさえカンノートゥ・レインジャ部隊出身の余所者だった。そこには未だにおそらく時間業務N.C.Oが大隊内に残っていた。男達の内おそらく50名かそこいらは送り出される前に2ヶ月以上の訓練を受けた;何名かはたった3週間の訓練を受けた;多くはマスキトゥ銃コースに火を点けたことも全くなかった。全てこう、最初の分割は前年の8月以来変わることもなく厳しい戦いだった;8ヶ月でその大隊は5回以上もその全戦闘能力を失ってしまった。その最後の時は5月9日、リシャブアにおいて、今までで最悪の被害だった。分割の碑文に:「ル・ジュ・ボアの方角での相当数の反体制直との遭遇、我々の攻撃は圧し潰されなかった。」212
Ⅻ章から投稿方法を変えます。読み易くするために章ごとに一まとめにします。翻訳量は設定せずに翻訳した和文を付け足していきます。章が変わると新たに日にちを変えて投稿し、また付け足して行きます。数字の211は今までに投稿した日数です。この数字は残します。